こんにちは、
こめまるです。
人生は選択か、運命か、と問われれば、僕は終わりのない選択の連続だと思うと答えます。
ある程度平和な日本に生まれたから言えるのかもしれません。
この時代、この国に望んで生まれた訳ではないので、そこは運命なのかもしれません。
でも、紛争中や飢饉の国々で苦しんでいる人たちの姿を知るにつけ、自分は幸運だったな、と思います。
その幸運に感謝する意味もあり、僅かな金額ですが毎月「国境なき医師団」に寄付を続けています。
それは以前イスラエルで、一緒に仕事をしていた人が、街でホームレスを見かけると必ず僅かばかりの寄付をしていた姿を見ていたからです。
詳しいことは聞きませんでした。もしかして宗教的なことかもしれません。
ただ、その人の姿が、あまりにも自然だったので、何か心が打たれたのです。
パラレルワールドで、別の自分を想像してみる
毎日、起きてから寝るまで、小さな選択の連続です。その選択を続けた結果が、今の自分です。
お昼のランチの場所や同僚とのたわいない会話、いちいち意識していなくてもあれこれ選んで毎日生活しています。
その選択の結果が如実に表れるのが、進学、就職、結婚など人生の大きな選択を迫られた時です。
大学受験の時、A大学とB大学に合格して、A大学に進学したけど、B大学に行っていたら今の自分は何をしていただろうか?
就職の時、企業Aと企業Bから同時に内定もらって、企業Aに就職したけど、企業Bに就職していたらどうなっていただろうか?
結婚する相手が、今の妻ではなく、A子だったらいまどんな生活していただろうか?
なんて、考えたりするのは僕は嫌いではありません。
そして、SF小説などに出てくるパラレルワールド的に、B大学に進学して、企業Bに就職して、A子と結婚している自分を想像してみることがよくあります。
もしあの時、ちょっとして行動や会話で、人生は簡単に変わっていたかもしれない思うのです。
現在の僕は、62年間、小さな、時には大きな選択を繰り返してきて、現在の自分がいるんだなぁ、と思うとまさに生きるとは不可思議なことだと思います。
自分の選択に感謝する時、しない時
人生の大きな選択をしなければならない時に、振り返って自分の選択に感謝出来る人は幸せです。
一方、その選択を罵りたくなる人はそうではありません。
このように過去を振り返って、感謝したくなる選択と罵りたくなる選択の違いはどこにあるかを考えてみました。
結論は、とてもシンプルです。
その選択を自分の意志で決めているか、そうではないかだと思います。
自分の意志とは違った選択とは、親のすすめるままに行った大学、コネなどで無理やり入社させられた会社、好きでもない相手と嫌々結婚させられたなど、例はいろいろあるでしょう。
自分の意志で選んだことなら、失敗しても諦めもつくし、挽回策も自分で考えられますが、そうでないなら人のせいにしてしまいます。
そうなると人生面白くないでしょうね。
最後に
なんか偉そうに書きましたが、選択は大事と言いながら、いちいち真剣に考えているわけではありません。
なんとなく、こっちの会社がいいんじゃないかなぁとか、この女性がいいかなぁって感じで、適当に選んできて今に至っています。
特に不幸だったとは思わないし、素晴らしい人生だったとも思いません。
現時点では、まあまあな人生だと思っています。
最後に小説家で麻雀も強かった五味康祐氏のエッセイに、
「勘は過たない、過つのは判断だ」という意味の言葉がありました。
僕は、選択に困った時、いつもこの言葉を思い出します。
つまり自分が面白そうだな、と思うことを選ぶことにしています。
だから、定年後は再雇用を途中で辞めて、自立した生き方、働き方を選んだのです。
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