こんにちは、
こめまるです。
もうすぐ、63歳の誕生日を迎えます。
そして長年勤めた会社を退職して1年を迎えようとしています。
サラリーマン時代と今で変わらないのが、起床時間。
毎朝、午前5時に起きて、三匹の猫に餌をやって、ブログを書いて、
一人で朝食を取ります。
違うのはここから。
サラリーマン時代は、午前8時前には、出勤のため家を出ました。
僕が出勤するまで、家族はまだ誰も起きてきていません。
僕は、まだ若いオス猫よしおに、行ってきます、というと
よしおは、きょとんとした顔をして、出てゆく僕を見送っていました。
最寄り駅まで25分歩いて、約30分電車に揺られて、9時過ぎには、勤め先に着きました。
勤め先には、タイムカードがなく、自分のPCを立ち上げて、
出退勤を管理するソフトにログインすれば、出勤したことになります。
退勤の時は、その逆にソフトをログアウトすれば良いのです。
今は、朝食後自分の作業机でPC作業を再開します。
祖父の生誕112年と思い出
1908年、明治41年は、母方の祖父が生まれた年です。
誕生日までは憶えていません、いや、知らなかったのかもしれません。
僕が、1957年昭和32年生まれで、初孫でしたから
僕が生まれた時、祖父はまだ50才前でした。
背の高い、がっしりした体格で、禿げあがった頭と大らかな人柄で、僕は大好きでした。
母の実家が、近かったこともあり、幼少の頃から小学生の時まで、毎日のように遊びに行っていました。
また、母には弟が三人いて、よく可愛がってもらったものです。
祖母も優しく気づかいの出来る人で、僕は、母の実家に行くのが日課になっていました。
ただ、物心ついてからの記憶をたどっても、不思議なことに祖父が働いている姿を見たことがないのです。
夕方小学校が終わってから祖父の家に行っても普通にいましたし、もしかしてすでに働いていなかったのかもしれません。
学生の頃、陸上の選手で、ケガをして脚を痛め、当時は片足を少し引きづるように歩いていました。それだからでしょうか?
おじいちゃんは、なんで働いていないの?
一度母に聞いたことがあります。
母の答えは、若い頃は、ちゃんと会社勤めしていたよ、ということでした。
僕がその質問した当時、祖父は50代の中頃だったと思います。
すでに年金暮らしだったのでしょうか?
でも祖父は、風流で趣味人でした。
特に暇を持て余している感じではありませんでした。
よく叔父たちの友人たちが、祖父に家に来ては、一緒に将棋や碁をさしていました。
また、毎年鈴虫を育てては、秋になるとその鳴き声を聴かせてくれました。
また、驚いたことにトノサマガエルの餌付けまでしていました。
祖父が、縁側に座って、空き缶を叩くと、どこからかトノサマガエルが何匹かやってくるのです。
それをみると、祖父は、やあこんにちは、元気だったかなとカエルたちに声をかけて、
用意していたミミズを集まってきたカエルたちに、ハシで摘まんで投げるのです。
そうすると、カエルたちは、それをパクっと食べるのでした。
僕は、おじいちゃん凄いね、と言って祖父の隣で感心していたものです。
朝比奈隆氏は、祖父と同い年
最後の巨匠と言われた指揮者の朝比奈隆氏は、2001年に93歳の長寿を全うされました。
亡くなるまで現役で、世界中の音楽ファンからその死は惜しまれました。
朝比奈氏は、奇しくも僕の祖父と同い年です。
祖父は、僕が大学生だった78年に70歳で亡くなりました。
貧乏学生だった僕は、帰省するお金がなくて、葬式に行かなかったことを今でも悔やんでいます。
当時は、高齢と思っていましたが、今思うとまだ若かったんだな、と思います。
一方、朝比奈さんは、その頃、ようやく知名度は上がってきていましたが、
圧倒的なカリスマ性を発揮するのは、まだ先のことでした。
僕は、80年代後半から90年代初めに掛けて、よく朝比奈氏のコンサートに行きました。
当時すでに80歳前後だったと思いますが、背筋がピンと伸びて、かくしゃくとされていました。
コンサートが終われば、ブラボーの嵐で、朝比奈さんは、何度もステージに戻って、観客に向かって挨拶をしていました。
その姿を見て、僕は、朝比奈さんは幸せな人だな、と思ったものです。
最後に
自分の63歳の誕生日を前にして、1908年明治41年に生まれた二人の人生を考えてしまいました。
僕の祖父は50代でリタイヤして、老後は趣味人としてのんびり暮らしました。
一方、朝比奈氏は、世界的指揮者として、亡くなるまで現役でした。
どちらが幸せな人生だったとは言えないし、比べるものでもないと思います。
そして二人とも僕の記憶と思い出の中にしっかり生き続けています。
僕も誰かの記憶に残る人になれたら幸せだな、と思います。
コメント