喪中はがきを受け取って 年賀状 最後の言葉から

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こんにちは。
こめまるです。

50歳を過ぎる頃から、年末にかけて喪中はがきを受け取る数が増えてきました。

僕は、年賀状をそんなに出す方ではなく、最盛期でも150枚程度でした。
そんな僕でも、50歳も過ぎると毎年10枚前後の喪中はがきを受け取るようになりました。

多くは、相手の方やその方の配偶者の両親で、年齢も80歳を超えている場合が多かったように記憶します。
しかし、ある時、本人の喪中ということで、その奥さんから届いたときは驚きました。

もちろんそういう例は、それ以外にもあったのですが、その方が他界されたことを知っていた場合は、喪中はがきをみても驚きはなかったです。

しかし、2014年11月にKさんの奥様から届いた喪中はがきには、驚きとそれ以上の悲しみがこみ上げてきました。

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年賀状から読み取る Kさんの思い出

僕が大学卒業と同時に入社した会社は、ジュエリーを取り扱っている会社でした。
僕が配属された部署は、ジュエリーの素材をメーカーや小売店に卸し部署でした。

毎日、取引先を回って、必要なものを聞いて回ったり、素材を使ってもらえるように、企画提案を持ち込んだりしていました。

ジュエリーの素材というとゴールドやプラチナ、ダイヤモンドやルビー、サファイヤ、真珠などがありますが、僕の部署が扱っていたのはダイヤモンドでした。

海外からバイヤーが買い付けたダイヤモンドを国内のジュエリーメーカーや問屋、小売店に卸す仕事をしていました。

Kさんは、そんな取引先中でも特に大手の会社の管理職の方でした。
僕より一回り年上のKさんは、そこの仕入れも担当する部署の責任者をされていました。

だから直接ダイヤモンドの検品や値踏みをすることはありませんでしたが、
僕が訪問するといつも声を掛けてくれて、

「やあ、こめまる君元気か?」
と言って、ビジネスが終わった僕の商談テーブルに座って話しかけてきました。

Kさんは、たまたま僕と同じ大学出身で、しかもクラシック音楽が好きでした。そんなこともあり、僕の前に座るといつもにこやかに、音楽の話をされることが多かったものです。

また世界情勢などにも詳しく、いろんなことをKさんから教えて頂きました。

また、室内楽のコンサートに誘われて一緒に聴きに行ったこともありました。

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定年退職 届いた年賀状

2010年1月1日、いきなりKさんから年賀状が届きました。

実は、お互いに部署が異動になり、僕もKさんとは10年ほどお会いしていなかったのです。だから年賀状を頂いたときは、驚きと共に懐かしさでとても嬉しい気持ちになりました。

その年賀状には、前年の2009年秋に会社を退職した旨と、現在は趣味三昧の生活を送っていると書かれていました。

二つの合唱団に所属して、宗教音楽を扱っているのでラテン語の勉強を始めたとか、短歌を2年前から始めて、既に770首余りも詠んだとかとても楽しそうに書かれていました。

それがKさん64歳の時です。

そしてKさんから最後に受け取った年賀状は、2013年1月1日付けのもの。

そこには、印刷で前年に合唱団で歌った曲のことや奥多摩、奥秩父へ登山に言ったこと。
そして4人目の孫が生まれたことなど書かれていました。

そして得意の短歌で次の句が添えられていました。

“わいの人生、今が旬。体がいうこときくうちに、夢もみたいし、旅もいい。そろそろ本格始動にまいろうか。”

ただ、気になったのは、“おまけに入院加療が12日”と印刷されていたことです。

そして最後に自筆で、

“人生楽しんでいますか。収入は十分ですか。
私も二人の子供がそれぞれ家庭をもってがんばっているので、安心して趣味の生活をしています。”

と書かれていました。
そしてこの自筆の文が、Kさんに僕に贈ってくれた最後の言葉となったのです。

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まとめ

2013年1月1日付けの年賀状を受け取って、その年の11月にKさんから喪中はがきを届きました。
そこには奥さんのお父様とご自分のお母さまが亡くなったことが書かれていました。

2014年はKさんの心温まる年賀状は来ないんだな、と少し寂しい気持ちになりました。

そして1年後の2014年11月に再びKさんから、いやKさんの奥さんの名前で喪中はがきが届いたのです。

そこには6月に夫Kが、69歳にて永眠しました、と書かれていたのです。

僕は、その喪中はがきを手に持ったまま、思わず天を仰ぎました。

Kさん、もっと楽しみたかったよね。残念だね。
知らず知らずのうちに涙が流れてきました。



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