こんばんは、
こめまるです。
今日は60才と25日。
もう明日出勤すると定年退職です。
そして10月2日は、契約社員として出勤します。
部署も席も変わらないので、周囲は全く変化に気が付かないでしょうが、僕にとっては、大きな変化です。
なんていうか気持ちが自由になりますね。
30才と60才に感じたこと
僕は、60年生きてきて、30才と60才になった節目が、一番感慨深いものを感じました。
30才の時は、むしろ寂しい気持ちになりました。
それまで20代で若いのが当たり前だったのが、もう若くないんだな、もう青春時代には戻れないんだな、と寂しい気持ちになりました。
でも、60才になった時は、なんか自由になったというか、重荷を下ろしたような解放感を感じました。
これは何かな?と考えてみると、もうそんな頑張らなくていいんだよっていう声がどこかから聴こえてきたように感じたからです。
本当にそんな声が聴こえたわけではなく、僕の心の声だったのでしょうね。
定年を迎えることで、今までの仕事のプレッシャーはある程度緩和されます。
やっていることは同じですが、会社と契約書を交わして、その期待の低さが分かったからです。
いままでよく、残業も休日出勤もいとわず働いてきたことからもっと気持ちを軽くして仕事を向き合えるからです。
次に家族です。
子供たちが全員成人したことは大きいです。
3人目がまだ大学1年生ですが、僕に何かあっても退職金でなんとかなるし、成人していれば、自分の力で生きて行けるでしょう。
そしてまだ50才前半の妻は、がんがん仕事をしています。
僕の収入は下がりますが、何とか出来るでしょう。
人生50年という考えは生きている
人生50年なんていうと織田信長を思い出して戦国時代の感覚と思っている人が、いるかもしれません。
でも僕が少年時代までは、まだまだそんな感覚が生きていました。
僕が少年時代というと40年以上前ですが、その頃は60才になるとりっぱな老人という感覚がありました。
でも僕は人生50年という感覚はいまでも生きていて、もっとそんな感覚を持ってほしいと思います。
人生の大事なことは50年で全て済ませて、それ以降は、昇り切った山を下りるように20年、30年掛けてゆっくり周りの景色を見ながら降りて人生を終えるのがいいな、と思っています。
僕はまだ読んでいませんが、五木寛之氏の下山の思想もそれに近いのではと思います。
20才までにいろんな知識を吸収して、恋愛をして結婚をして親になり、仕事に打ち込み、次を担う子供たちを育て、50才までに社会に送り出す。
そこからが第二の人生を送れるのではないかと思います。
いまは変に平均寿命は伸びたことが悪い方向に振れて、10代、20代、30代でやっておくことが、どんどんあと送りになっているのではと思います。
いくら平均年齢が伸びたと言っても、わずか数十年で生物的に進化したとは思えません。
僕の定年後の目標は、長生きすることではありません。
一日、一日を大切に生きたいと思っています。
毎日の小さな目標の積み重ねでいいと思います。
命短し恋せよ乙女、青年老いやすく学成り難し、だと思います。
長生きは目標ではなく結果
僕が若い頃までは、長生きするということは、祝福されたものですが、いまは複雑な感情が生まれてきます。
むしろそんなに長生きしたくないとい内心思っている人も多いのではないかとも感じます。
長生きは目標ではなく結果だと思います。
僕自身は、元気で長生きしたと思っていますが、自分でトイレに行けなくなるまでは、生きたくないとも思います。
日々、小さな目標を見つけそれを達成することに喜びを感じて、気が付いたら長生きしていた、っていうのがいいですね。
最近は、自分が所有しているCD、LPが1000枚以上あって、それを全てしっかり聴いていなのですが、毎日1枚、1枚聴いてブログに感想を綴っていくことに喜びを感じています。
これだけ3年~4年は楽しめますね。
また僕が住む街は近くに慶応大学があり、ラーメン屋がたくさんあります。1軒、1軒入って味わいたいですね。
また、映画が安く観られるようになりました。
映画通になるのもいいですね。
こんな日々の小さな喜びを見つけて生きて行きたいと最近思うようになりました。
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