親の最後の仕事 死に方を教える

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こんにちは、
こめまるです。

先日、ジェーン・スーさんのラジオ番組を聴いていたら、親の最後の仕事は死に方を教えることという言葉が飛び込んできました。

つまり子供に残すこととは、その最期を見せることだということです。
死に方と言うとちょっと深刻なようですが、つまり親として最期までどう生きるかということです。

今日は、そのことについて考えたいと思います。

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青春の門にみる男の生きざま

男だ、女だとことさら強調するのが、現代では、敬遠されます。

僕は、昭和32年生まれですから、男は男らしく、女は女らしくというよくわからない基準の下で育ちました。

男の子は、外気元気に遊ぶというのが、当たり前で、家で女の子と遊ぶなんて周りから変な奴と思われたし、喧嘩して泣かされて帰ると、母親から男のくせに泣くな!と怒られたものです。

僕は、大人しい性格だったので中学生くらいまで女みたいやつと時々言われたものです。

さて、五木寛之の長編小説『青春の門』の筑豊編では、信介の父親が、炭鉱事故で生き埋めになった仲間を助けるため、炭鉱に脱出口を開けるため、ダイナマイトを体に縛り付け落盤事故のあった炭鉱に単身入って自分の命と引き換えに大勢の仲間たちを助けたというシーンがありました。

利口もバカも死ぬのは一度きりたい、と言って炭鉱に向かった父親を若い義母タエに抱かれた信介の強烈な記憶となったのです。

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子供は親をちゃんと見ている

60歳を過ぎると毎年のように親族の訃報を受け取ります。
3年前に母親、2年前に叔母、昨年は叔父、そして今年は妻の父。

亡くなると不思議ですが、故人の記憶が、えっ!?こんなことまで憶えていたんだ、というくらい蘇ってきます。

母の時は、通夜の後、一晩同じ部屋で寝ました。出てきてくれないかな、と期待しましたが、残念ながらなにもありませんでした。

母とのつまらない会話が蘇ってきました。母は、亡くなる3年ほど前から記憶が怪しくなりましたが、最後まで僕の小学校時代の友達の名前だけは憶えていました。

いつか言っていましたが、僕と一つ下の妹が小学生時代が一番楽しかったそうです。

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最後に

先日亡くなった妻の父の遺品が多少家に残っていました。パソコン関連の本だったり備品だったりで、まだ亡くなる少し前に処分していました。

そして亡くなった後、親族との会話で60歳前に早期退職してから一切、働かなかった義父は、何かやりたかったんだろうとその動かない姿を見ながら考えていました。

結局は、どう生きようと残された家族は、何かを想わずにはいられないのです。

そう思うと誇れるような生き方は出来なくて真剣に生きたいと思います。



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