こんにちは。
こめまるです。
2011年3月11日に起きた東日本大震災は、東京にいた僕にもそれからの生き方を考える大きな事件となりました。
9年経った今は、新型コロナウイルス禍の真っ只中ですが、いろんな災害や疫病とは隣り合わせです。生き延びていることに感謝して生かされていることへのお返しをしたいといつも思っています。
さて、今日は当時を振り返って自分の心境の変化を考えたいと思います。
東日本大震災 当日
2011年3月11日は金曜日でした。
僕は当時、六本木にある宝飾品を扱う会社に勤めて、宝飾展示会の企画と運営を担当していました。
当日は、会社の展示会場でちょうどイベントを開催していました。
イベントでは、お買い上げのお客様にレストランでのお食事をご提供していました。
お昼の部がほぼ終わりかけた頃、午後2時46分、
突然、地震に気付きました。
僕は、富山出身で、地震をほとんど経験せずに上京しましたが、東京に来て最初に驚いたのが、地震の多さでした。震度3程度までの地震が、ちょこちょこあるのです。だから長く住んでいるとそれも慣れてきていました。当時でもう30年以上も東京、横浜と首都圏で生活していました。
しかし、しかし、その時に地震は、次第に揺れが大きくなり、しかも長時間続きました。
長時間と言っても数十秒から1分でしょうか?
それでもいつもは数秒で揺れが収まるとこが、それだけの時間が揺れるのは異常です。
僕は、生まれて初めて地震に恐怖を感じました。
東日本大震災 当日 イベント会場など
イベント会場は、地下2階だったからでしょうか?地上よりも揺れが少なかったようで、展示物の倒壊とかはありませんでした。
でもホールと言えども地下という空間からか、僕のいるエントランスに何人も上がってきてうろたえていました。
それに加え、近くに地下鉄の乃木坂駅がありますが、地下鉄が止まったということで、十数名が会社のエントランスに入ってきました。
座る場所は欲しかったのか、トイレを借りる人もいました。
エントランスに駆け込んできた人たちから地下鉄が止まったと聞きました。
また、数十メートル離れた6階建てのビルでは、上の階のガラスが壊れ、道路に落下していました。また、青山一丁目まで少し歩くと、大手の企業がありますが、30人ほどヘルメットをして会社のまで座り込んでいました。
東日本大震災 震源地はどこだ!
しかし、なかなか地震情報が届きません。
震源地はどこだ!?
つまり情報が遅いということは、現地は悲惨な状況になっているということです。
これは、1995年の阪神淡路大震災で経験しています。
震源地近くの状況が、悪ければ悪いほど、情報が発信出来ないので伝わってこないのです。
数分後ようやく震源地が、宮城県沖だということがわかりました。
その時はまだ津波の情報は届いていません。
当時は、まだスマホは持っておらず、会社携帯しか持っていませんでした。
すぐ家族に連絡を取ると妻、長男、長女は幸い家にいました。
ただ、次女が中学校にいるということでした。
一応大丈夫ということで、ホッとしました。
どこかで、身内に安否がわからない内は何もできない、という話を聞きましたがまさに納得しました。
家族の安否が確認できたことで僕が仕事に集中することが出来ました。
結局、夕方に予定していたレストランがタクシーで10分くらいの場所にあったのですが、とにかく交通手段が麻痺しているのでご案内出来ないため、そのレストランへのキャンセルの連絡し、歩いてご案内できるレストラン探しと普通なら、そんなに時間は掛かりませんが、とにかく連絡が困難で相当時間がかかりました。
予約してレストランは、こんな状況なのでキャンセル料も請求しないということでなんとかなりました。
しかし、新しいレストランはなかなか見つからず、こちらは歩いて探しました。
徒歩5分ほどの場所に新しいレストランと交渉出来、そちらにご案内することが出来ました。
まとめ
家族の安否が確認されてから仕事とに集中できて、それが落ち着いてからようやく自分はどうするかになりました。
いつも使っている交通手段は止まったままでした。
夜になりようやく連絡手段が落ち着いてきて、しかもテレビで津波災害が発生したことを伝えていました。
その悲惨さに心が痛みました。また自分と家族が無事だったことに感謝しました。
たしか東京でも、上からの落下物で命を落とした方がいたからです。
結局、交通網が復旧せず、僕は会社に泊まることにしました。
当然宿泊設備はないので、店舗のソファに縮こまって眠った記憶があります。
何を食べたか憶えていません。
仕事が終わってコンビニに行っても何もなかったと思います。
でも、この日を境に雇われない生き方を目指すようになったことは確かです。
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