ジョン・レノンは永遠に 38年前、僕は23歳の大学生だった

1980年12月9日の午後、

信じたくもないようなニュースが飛び込んできた。

ジョン・レノンが死んだというニュースだった。

僕は、当時大学4年生で23歳。

就職活動はしたけど、内定ももらえず、単位も落として留年が確定していた。

いまの自分から見ても、どうしようもない大学生だった。

そんな先が見えない、僕に

「ジョンが死んだ!?」

という衝撃は、大げさではなく生きる力を失いかけたほどだった。




ジョン・レノン最後の言葉 38年後に知った真実

『ジョン・レノン全仕事』という、定価3,200円のぶ厚い本がある。

2001年6月24日に、ザ・ビートルズ・クラブというところから出版された本だ。

この本は、部分部分は飛ばし読みしているけど、まだ全ては読み通していない。

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その内と思いながら買ってから2年も経ってしまった。

この本の109ページにジョンの最後の模様が書かれている。

一部抜粋したい。

“警官の数が増えていき、やって来た刑事がジョンの体を仰向かせて負傷の状態を見ると「名前は?」とたずねた。ジョンはつぶやくように「レノン」と答えた。ジョンがかなりの重態であることは一目瞭然だったので、救急車を待つよりパトカーで病院へ運ぶことになり、パトカーはいちばん近い救急病院、セント・ルークス・ルーズベルト病院へ向かった。ジョンが意識を失わないよう、刑事はずっと話しかけた。

「あなたはジョン・レノンなんですね?」
「そうだ」。ジョンの声はどんどん弱くなっていく。
「今の状態は?」
「痛む」
それがジョンの最後の言葉となった。
ジョンの死亡が確認されたのは午後11時7分、ヨーコにその死が告げられたのは午後11時15分だった。

ジョン・レノン、享年40歳。”

ジョンの命日は、12月8日となっているけど、

日本にその悲報が届いたのは、1980年12月9日13時7分以降ということになる。

ジョン・レノンの悲報 僕はその後の記憶がない

ジョンの訃報を聞いたのは、アルバイト先の喫茶店だった。

僕が、大学に入った頃からお世話になっている先で、

よくご飯を食べさせてもらっていた。

娘が3人いて、末っ子のK子と年が近く、親しかった。

有線放送でいやにジョンの曲が流れるので、嫌な予感がしていた。

それというのも3年前の夏、つまり1977年8月、

僕は大学1年で、同じくその喫茶店でバイトをしていた。

ある日、エルビス・プレスリーの曲が、やたらと店の有線放送から流れ出した。

マスターが冗談ぽく、死んだんじゃない?と言った。

僕は、まさか?まだ若いでしょう?と答えた。

でも、マスターの冗談が当たった。

それから少し後、プレスリーの急死を知った。

そんな忌まわしい記憶があるので、嫌な予感がしていた。

残念ながら、的中した。しかも殺害されたということだった。

その日、どうやって下宿に戻ったか憶えていない。

ただ、下宿の四畳半で一人ラジカセで、ジョンの曲を聴き続けていた。



ジョン・レノンは永遠 あの世で会えることが楽しみ

僕は現在、ジョン・レノンのLPを数枚持っている。

でもLPをターンテーブルに置くことはまずない。

ストリーミング配信で彼の全ての作品を聴くことができるからだ。

でも、イマジンを求めて、必死で自転車のペダルを漕いでいた情熱はもうない。

もし、あの時、級友からイマジンのLPをもらっていたら人生は変わっていたのか?

それとも変わっていなかったのか?

僕は、通っていた5年生の国立高専を3年で中退して一浪して大学を目指した。

毎日のように図書館に通って、受験勉強をしていた。

そして勉強に疲れると視聴覚室に行って、ヘッドホーンでジョンの曲を聴いた。

選ぶアルバムは、いつもジョンの「ロックンロール」だった。

ジョンの原点を感じさせるアルバムだ。

アルバムに映る革ジャン姿のジョンがカッコいい。

さいごに

ザ・ビートルズのメンバーでは、ジョンが一番好きだった。

高校生の頃から変わらない。

でも、さすがに一年中ジョンのことを思い、曲を聴いているわけではない。

他に聴きたい曲はたくさんるし、いまクラシックのブログ記事を毎日書いているので、

音楽を聴く90%以上は、クラシックだ。

ジョン・レノンは、12月8日の命日が近づくと思いだしたように集中して聴いたりしている。

僕の中では、ジョン・レノンとボブ・デュランだけは特別なのだ。

この二人は永遠に理解できないかもしれない。

でも僕がこの世からいなくなるまで聴き続けたい。



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