定年後の仕事 200年以上前の作曲家ハイドンに学ぶ

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こんにちは。
こめまるです。

オーストリア出身の大作曲家ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)をご存知ですか?
今日は、ハイドンの生涯から、サラリーマン時代の仕事と定年後の仕事について考えたいと思います。

ハイドンは、オーストリアの片田舎の貧しい家の生まれでしたが、両親は音楽好きでのちにウィーンに出て音楽の職に就くようになりました。

ハイドンは、ベートーヴェンに影響を与え、モーツァルトを友として24歳の年下が35歳の生涯を閉じたのに対し、77歳まで生きて、人生を謳歌しました。

僕は、ハイドンの生涯を見ていると現代のサラリーマンにも参考になうと思いハイドンの生涯をたどりながら、サラリーマンの生き方を考えたいと思います。

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定年後の仕事 作曲家ヨーゼフ・ハイドン リストラされる

ハイドンは、1761年、29歳の時に当時ヨーロッパ最大の領地と財産を持つエステルハージ家の庇護を受け、以来、ここの楽団の楽長になり、約30年間ここで生活しました。

宮仕えの堅苦しさや我慢することも多くあったかもしれませんが、ハイドンにとっては平穏で楽しい30年間だったと思われます。

資料によると、ハイドンは身長はそれほど高くなくずんぐりとしていましたが、ユーモアがあり、楽団員からはパパ・ハイドンとして慕われていました。

また、音楽好きのニコラウス侯の依頼と言え、生涯に108の交響曲、83の弦楽四重奏曲、4つのオラトリオ、34の歌劇のかなりをエステルハージ侯時代に作曲し、実力を付けていました。

しかし、1790年にニコラウス侯が亡くなると次のアントン侯は、それほど音楽好きではなく、また経費削減もあり、ハイドンによって高いレベルに育成されていた楽団も解散させられてしまいました。つまりハイドンともどもリストラされたのです。

日本の企業でもよくある話です。


※ウィーンの街並み

ハイドンは、僅かな年金を受け取りウィーンに戻りました。
ハイドンは既に58歳。
200年以上前の58歳です。ちなみにベートーヴェンは57歳で他界しています。

しかし、ハイドンの凄いところからここから自由な音楽家として名曲を量産するのです。

定年後の仕事 作曲家ヨーゼフ・ハイドン 自由音楽家として再出発

ウィーンにいた58歳のハイドンの前に1人の男が現れました。
イギリスのロンドンから、ザロモンという男がハイドンを訪ねてきたのです。

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ザロモンは、ベートーヴェンと同じボンの出身でヴァイオリニストでしたが、指揮をしたり弦楽四重奏をしたりしていましたが、10年ほど前からロンドンで興行師として活躍していました。

ザロモンは、もとからハイドンを崇拝していて、エステルハージ家を解雇されたことから、イギリスでハイドンの新しい交響曲などを発表しないかと持ち掛けたのです。
また、ギャラの条件なども良かったこととハイドン自身、一度ドーヴァー海峡を渡ってみたいと思っていたことで話はとんとん拍子に進みました。

結局、ハイドンは1791年から92年、94年から95年の2回渡英し、合計12曲の交響曲を発表し、大成功を収めました。
年齢からいうと59歳から63歳に掛けてです。

現代言うと、定年間近にリストラされ、大した退職金ももらえず、フリーランスになったはいいが不安でいっぱいだったのに、60歳を過ぎて生涯でもっとも華やかな時期を迎えたのです。


※ロンドン

定年後の仕事 ハイドンの教訓に学ぶ

ハイドンは、エステルハージ家のお抱え楽長時代には、それこそ仕事に打ち込みました。そして実力をつけ名声も得るようになりました。

そして何よりも仕える相手が変わってリストラされても落ち込まなかったところです。
当時の58歳と言うと今では70歳くらいのイメージでしょうか。

ハイドンは、宮仕えから解放された自由を謳歌するようにザロモンの申し出を受けた羽ばたいたのです。

そして末永く親しまれる傑作を生みだしました。

ベートーヴェンが最後の第九を発表したのが54歳の時で、クラシック音楽の歴史を見ても60歳を過ぎてこれだけ傑作を量産した作曲家はいません。


※エステルハージ・パラス

最後に

ヨーゼフ・ハイドンの生き方は、特殊かもしれません。天才ハイドンだから出来たことかもしれません。
またハイドンのユーモアと機知に富んだ性格だったかもしれません。

しかし、現代のサラリーマンは、会社員時代は会社のは俺の実力を正当に評価しないと不満を言う割には、いざ定年後起業したらと勧められても尻込みする人が多いようです。

ぜひハイドンの精神を見習いたいものです。



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