探し求められる人になりたい

音楽
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おはようございます、
ともやんです。

 

三国志で蜀の劉備玄徳が、国を大きくするため
諸葛孔明に参画を要望し、三顧の礼を尽くして迎えたのは有名な話です。

 

そんな人になりたいものですが、もう遅いのかな、、、

 

さて、第二次世界大戦直後のドイツでこんな話がありました。

 

ハンス・シュミット=イッセルシュテット(1900-1973)というクラシック音楽の指揮者がいました。(以下、ハンス・シュミット)

 

ドイツ・ベルリンのビールの製造所を営んでいる家に生まれた生粋のベルリンっ子で、大戦中には、ベルリンのドイツ歌劇場の音楽監督に就任したほどの実力者でした。

 

しかし、敗戦により全ての職務を失い、田舎で疎開生活を送っていました。まだ40代半ばの働き盛りで悶々としてことでしょう。

 

そんな1945年5月のある日、英米の占領軍の将校数名が、
ハンス・シュミットの疎開先を探し出しやって来ました。
将校たちは「ここにハンス・シュミット学長はいつか?」と尋ねてきました。

 

本人の手記によると探し出させることは良い気分ではなく、なにをされるかわからないので緊張したが、素直に白状したところ、
「あなたに少し質問したいことがあります。」というものでした。

 

将校の中の一人、ボルノフ少佐がその中の責任者でした。
当時イギリス軍はハンブルク周辺を占領して軍政を布き、逸早い民生の安定を目指して活動していましたが、ボルノフ少佐はその音楽部門の責任者だったのです。

 

少佐は、責任者としてBBC交響楽団は範とした放送オーケストラの創設を任されていたのです。

 

そして少佐が、新しいオーケストラの指導を委ねようと探し当てたのが、
ハンス・シュミットだったのでした。

 

なぜハンス・シュミットが選ばれたか?

 

彼は、ナチス党政権下でも入党することもなく、またナチスが白眼視していたヒンデミットやストラビンスキーの曲を積極的に取り上げていたという経歴をイギリス軍は押さえていたのです。

 

イギリス軍は、実力、人物ともに兼ね備えたハンス・シュミットに白羽の矢を立てたのでした。

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その日から、ハンス・シュミットの人生で最も輝かしい時期が始まったわけです。
彼には1台の車が支給され、彼はそれで敗残兵がいる捕虜収容所を回って、もとのオーケストラ団員を探し出し、オーデションを行い、
ベルリン・フィルとウィーンフィルの弦、コンセルトヘボウ、ボストン響の管のレベルを目指して練習を重ね、なんと6か月後の1945年11月には、
第1回目のコンサートを開催するまでになりました。

 


このオーケストラが、現在、ドイツを代表するオーケストラになった
北ドイツ放送交響楽団(2017年1月よりNDRエルプ・フィルハーモニー管弦楽団に改名)なのです。

 

イギリス軍の選択は、その後のハンス・シュミットの活躍、オーケストラの成長、ハンス・シュミットの人脈を活かした客演指揮者の招聘など、最良のものだったことがわかります。

 

ハンス・シュミットの代表的な録音は、
やはりウィーンフィルとのベートーヴェン交響曲全集ですが、
この全集はウィーンフィルとして初めてに全集でした。

 

 

僕は以前、なぜウィーンフィルがハンス・シュミット(日本での知名度はいまいち)を指名したか、不思議でしたが、北ドイツ放送響の創設エピソードを知って納得しました

こちらのブログでは、ハンス・シュミットの名盤も紹介していますので、
ぜひご覧ください。

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