孝行のしたい時分に親はなしの僕なりの解釈をすると言いわけになる

こんばんは、ともやんです。

先日、母を亡くしました。
83才でした。

もう40年も一緒に生活していませんでしたが、
母はやっぱり母です。

地球上でももっとも僕を愛してくれた人です。

ところが、その愛された本人、つまり僕は、
一連の葬儀の中でも、もちろん悲しい気持ちはあったのですが、

なんか、こみ上げてくるものがなかったのです。

さすがに火葬場での骨を持った時は、ぐっと来ましたが、
それでもこみ上げてくるような悲しみではありませんでした。




こみ上げてきたのは後悔の念だった

母が亡くなって感じたのは、後悔の念でした。

どうしてもっとそばにいてやれなかったんか、
そうしてもっと一緒に旅行とかしなかったのか、
どうしてもっと、、、、

とういう後悔の念でした。

ことわざの
“孝行のしたい時分に親はなし”

とは、まさに親の苦労を知った時、親孝行をしようと思うのに
その時には、もう親はいないという後悔の念のことですね。

まさに、僕はことわざ通りの感情を持ったのでした。

親より先に死なないことが最大の孝行

でも、このことわざには、その先の解釈もあると思うのです。

つまり親が亡くなったあとに子供である自分が後悔をしているわけですから、親の方が先に亡くなっている訳です。

つまり最低限の孝行はしているんですね。

最大の親不孝は、親より先に死ぬことと言われます。

つまり、

“孝行のしたい時分に親はなし”

ということわざには、後悔の念と共に、最低限の孝行はしたんだよ、

というひとつの言いわけがあると僕は思います。



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