時を駆けるおじさん、適応するヤツが残る

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こんばんは、ともやんです。
60才と2日。

 

僕は、1957年(昭和32年)9月生まれです。

 

この年に生まれて少し自慢なのは、東京オリンピックを2回楽しめる最も若い世代だということです。

 

なぜなら、前回の東京オリンピックは、1964年(昭和39年)10月で、
僕は7才で小学1年生。

 

前の年に家に白黒テレビが来て、僕は小学校からすっ飛んで帰って
オリンピックを観ていました。

 

この年代の1年の差は大きく、僕より1歳半下の妹は記憶が曖昧です。
会社の1年後輩の社員と話していても、やはり記憶は曖昧です。

 

多分、鮮明に憶えている人は僕よりせいぜい1つ下の当時6才だった世代位まででしょう。

 

そして3年後、2020年の東京オリンピック。

 

生きていれば、まだボケるには早いので鮮明に観ることが出来るでしょう。だから、僕と同年配の人は、それが細やかな自慢と言う人がいるんじゃないかな。

 

そして同時に科学の進歩をもっとも実感した世代とも思います。

まさに時を駆けるように科学の進歩を体験した世代ではないでしょうか?

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生まれた時は何もなかった

1950年代後半、昭和30年代初頭に使われていた三種の神器って言葉知ってますか?

これは、当時の家庭電化製品の白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫に使われていた言葉です。

 

僕のかすかな記憶では、祖父母に家に大きなラジオがあったのを憶えています。まだテレビが家にも祖父母の家にもない時代でした。

 

そして洗濯は母が、近くに洗濯場があり、そこに家庭の主婦たちが洗濯物と洗濯板を持ってきて世間話をしながら洗濯をしていました。

 

冷蔵庫は木製で一番上に氷を入れるものでした。

 

また、ご飯は、かまどで炊いていました。
僕は寒い冬の朝、かまどに薪をくべてご飯を炊いていた母の姿を憶えています。そして、その時の床の冷たかった記憶も鮮明に憶えています。

 

 

子供にとっては長かったようにも感じますが、わずか数年であっという間に家には白黒テレビ、電気洗濯機がやってきました。

 

冷蔵庫は少し後だったでしょうか。

東京オリンピック開催

僕は東京オリンピックを観るのが一番の楽しみで、小学校が終わったら、一目散に家に帰り、オリンピックを観ていました。

 

鮮明に憶えているのが、国立競技場に2位で入ってきた円谷選手が、
イギリスのヒートリーに抜かれる瞬間。大声で応援していました。

 

そして東洋の魔女と言われた女子バレーボールの金メダル。

 

特に、僕の印象に残っているのは、得点するとみんなで喜ぶ日本選手に対する一方、ソ連の選手が、得点してもそんなに表現も少なく表情も変えなかったこと。

ソ連てどんな国だ、とかえって彼女たちの表情を観てソ連に関心を持ちましたね。

 

何と言っても、少年の心に女性を意識させた体操のチャフラフスカ。

 

子供心にも美しい女性だな、綺麗だな、と心を奪われてしまいました。

 

その後、オリンピックでコマネチに代表される少女のアクロバティックな
演技が主流になって、寂しい思いをしている僕より上のオジサンたちは
多いんじゃないでしょうか?

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ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!

1966年(昭和41年)6月29日にザ・ビートルズの4人がやってきました。
当時僕は小学3年生。なんできゃーきゃ騒いでいるのかわからず、僕にはまだ早かったようです。

 

でもそれから7年後、僕はとっくに解散していた彼らに夢中になっていました。

 

ビートルズを皮切りにボブ・ディラン、ローリングストーンズと夢中になって行きました。

通信機器はドラえもんの世界

我が家に電話が入ったのは僕が高校生の時。

それまでは隣の内に電話が掛かってきて、となりのおばさんは
「ともちゃん、電話」と言って呼びに来て、電話に出ていました。

 

 

学校の名簿の通信欄にも電話番号の左横に(呼)と書いてある
級友も多かったですね。

 

高校生になって好きな女の子に電話するのがいまでは考えられないくらい
ハードルが高かった。

 

家族のだれが出るのかわからないからとても緊張した思い出があります。

 

その後、固定電話の時代が続きますが、
僕は社会人なる1980年代にはファックスが普及してきました。

 

これには驚きました。自分が書いたものが受信側に届くんですから。

 

中には書いた紙がそのまま先方に送られていると勘違いしていた人がいたみたい。

 

でもこれは画期的でした。

 

 

なぜなら、僕が大学時代の1970年代後半は、ファックスがなかったため、
オートバイで新聞社の記者クラブを回って原稿を新聞社のデスクに届ける
という仕事があったんですから。

 

この仕事、バイク好きが多く集まる職場で、僕は数ヶ月やってましたね。

高田馬場のサトウサンペイ氏のご自宅に原稿を取りに行ったこともありましたよ。

 

また国会議事堂内の記者クラブにヘルメット被ったまま赤いじゅうたんの上を歩いていったこともあります。

まとめ

社会人になって35年半。

20代の頃は大きなポケベルを持たされ、営業先で呼ばれればすぐ電話が出来るよう公衆電話の所在を頭にインプットしてましたね。

 

妻と初めてデートした時、待ち合わせ場所が分からず、会えなかったことがありました。

 

25年前でまだ携帯電話が普及してなかったんでよね。

その後、携帯電話のどんどん進化。

 

写真を撮って相手にすぐ送れるし、わからないことがあるとググるっていいながらスマホで検索、通勤時は音楽聴きながら、スマホのLINEで妻や娘とやり取り。

 

こんな時代予想もしなかったです。

まさに時を駆けてきたおじさんなんだよ、ちゃんと適応してきたんだよ。

 

適応できないおじさんもたくさんいるようだけど。

 

力の強いものが残るんじゃない、適応する奴が残るんだな。



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