藤圭子と五木寛之と怨歌の誕生と

[広告] 当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

こんにちは、
こめまるです。

7月5日が、歌手藤圭子さんの誕生だと知って、彼女はデビューも早かったからか、そんなに年齢が違わなかったことに改めてその早すぎる死に悼むことになりました。

1951年7月5日に岩手県一関市生まれですぐ家族で北海道に移り、旭川で成長したということです。ただ、両親が浪曲師ということで、両親の巡業に付いていくこともあり、中学を卒業した後、家族と上京したそうです。

今日は、藤圭子さんと彼女のデビュー・アルバムを聴いたことで対談するまでになった五木寛之氏について記したいと思います。

スポンサーリンク

藤圭子と五木寛之の繋がり

藤圭子さんの誕生日と知って、すぐ思い出しのが五木寛之氏のエッセイです。
たしか藤圭子をネタにしたエッセイがあったなと思い、本棚で五木氏の本をあれこれ探していて、見つけのが「怨歌の誕生

サクッと内容を書くと、五木氏が1970年頃のある日、当時横浜に住んでいてマンションのベランダから鶴見や川崎の工業地帯をぼんやり見ていた。
なぜかというと、連載を受け持っていた毎日新聞日曜版に書いているエッセイが締め切りを過ぎても書けなかったからだ。

文筆業者に取って締め切りほど辛いものはないようです。
僕に2年ほど、あるウェブサイトに寄稿していましたが、週1記事書くだけで、なかなか大変だった記憶があります。

ブログ記事なんて毎日適当に書いても書けないことがあるのに、お金をもらって書く記事は、それなりの文章を書かなければ行けないだろうし、そんな仕事を何本も引き受けているとそれなりに大変だろうなとは想像できます。

五木氏もそんな状況でぼんやりとベランダから外の風景を見ていたようです。

しゃあない、レコードでも聴くか、となって手短にあるレコードを見ると、見覚えがないアルバムがあった、それが藤圭子のデビュー・アルバムだったのです。

あれっ?こんなのあったけ、自分や妻の趣味でない。弟が置いて行ったのかもしれない。
そしてなんの先入観になく聴きだすと、これが凄かった。思わず妻も呼んで一緒に聴くと彼女も凄いわね、という。

そしてこの藤圭子のアルバムを聴いて、これをネタに毎日新聞へのエッセイを書き上げることになったわけです。

ところがこの記事が新聞に載ると思わぬ反響があり、藤圭子の専門家のような扱いになり、彼女を対談するまでになったというものです。

スポンサーリンク

五木寛之 怨歌の誕生

この時、毎日新聞の日曜版に載った五木氏のエッセイが、五木氏のもっと長いエッセイ「怨歌の誕生」の中にあります。

一部抜粋してみます。

冒頭の文章が、その後の彼女を暗示しているようで今読むとぞっとします。
《藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを夜中に聴いた、彼女はこのレコード一枚を残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、そうそれで自分の人生を十分の生きたのだ、という気がした。》

この後が気になる方は、ぜひ「怨歌の誕生」を読んでみてください。

僕自身、藤圭子はデビューが早かったので、まだ小学生の頃に聴いたものです。だからテレビで歌う彼女から五木氏のような深いものは感じませんでした。

なんか暗い曲を無表情で歌う人だな、と思ったものです。

スポンサーリンク

まとめ

藤圭子さんは、ご存じのように宇多田ヒカルさんの母親でした。
そう8年前に62歳の生涯を閉じられました。
状況から、自らの選択だったようです。

訃報を聴いた時、信じられなかったものです。
自分の娘がスターになったというのに、自分の夢を引き継いだというのに。

もちろん色々あったのだとは思います。
その時、藤圭子の未来を暗示したかのような五木さんの30年前のエッセイに思いを馳せたのでした。



スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました