終活 愛猫が教えてくれた最期の時を見つめること

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こんばんは。
こめまるです。

僕は、このブログを定年になっても前を向いて生きて行きたいという思いを綴るために始めました。

でもそれは最期の時を忘れたり、わざと考えたりしないということではありません。

残された人生をいかに充実させるかは、最期の時をイメージしておいた方が良いと思っています。

だから終活なのです。

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終活の名を借りた死のイベント化

終活を嫌う方は、人間の末期が産業化して、長生きさせることが社会の産業となっていることに嫌悪感を感じていると思います。

僕もそうです。

だから終活という言葉には、そんな意味も多分に含んでいるので、
この言葉を使うべきかどうか迷いました。

でも、言葉の意味は変化して行きます。

今後、終活を自分の問題として考えて行く人が増えれば意味も変わっていくと思います。

終活のいう言葉を使って、死をイベント化したような棺桶体験とか死に装束のファッションショーなどには出ないで、

自分が家族に残したい、自分が最後にしたいことを自然に素直にすればよいと思います。

愛猫が教えてくれた尊厳死

昨年の8月の終わり、14年間可愛がっていた猫が死にました。

子猫の時、妻が馴染みのお米屋さんから譲り受け引き取ったので、
コメと名付けて、まだ幼かった子供たち毎日楽しく暮らしていました。

頭が良く、性格も好奇心のせいで人懐っこいオス猫でした。

またよく話す猫で、こちらが読んだり話しかけると必ずニャンと返事をする猫でした。

そのコメが、昨年の6月頃から食欲が無くなり、医者に診せると、
腎臓の病気でももう手遅れとのことでした。

ただ、設備の整っている大きな病院で手術をすれば長生きできる可能性はあるかも!?しかし、その保証はないとのことでした。

しかも猫で14歳と言えば、高齢。

その近所の医者は、自分が出来ることは、点滴を打って延命できることぐらい、というので、その日から1週間に一回、近所の病院に行って点滴を打ってもらった。

全部で6回打てもらっただろうか、打った後は、多少元気になりエサも食べるのだが、
日々少しずつ弱っていく姿を見ていると辛い。

しかも部屋のソファの下の潜り込んだり、また弱った身体で外に出たがったり。

つまり彼は終活をしていたのです。

最期は、飼い主の僕らも知らないところで終えたかもしれません。

そして最後の点滴の日、病院に連れて行くと非常に嫌がりました。

その時、もういいだよ、僕はもういいんだよ、と言っているようで
あとから思い返しても胸が締め付けられる思いでした。

最後の点滴から2日後にコメは、妻や僕に看とめられて逝きました。

最後まで自分で手入れに行っていました。
猫と言えど、りっぱな最期でした。

まとめ

僕は、家族に、僕に何かあっても延命処置はしないようにと伝えています。

自分でそう言っておきながら、コメには延命処置をしてしまいました。

我が家にいま3匹の猫がいて、一番上は19歳ですが、
コメの時の半生で延命処置はしない予定です。

最後の点滴の時のコメの「おとうさん、僕はもういいんだよ」
と訴えたかのような姿が目に焼き付いて離れません。

自分が元気な内に、家族はしてほしいことを文章で残すことは大事ですね。

ボケてからは遅いし。
だから僕は個人個人の終活は大事だと思うようになりました。



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