ロシアの思い出
こんばんは、ともやんです。
僕は1989年から94年と足掛け6年に渡って仕事で
ロシアのモスクワに行っていました。
何回くらい訪問したでしょうか?
多分、15回前後だったと思います。
その時の思い出やエピソードをこのブログに記したいと思います。
ロシアのモスクワにダイヤモンドを求めて
1980年代、当時のロシアは、まだソビエト連邦時代でしたが、
ダイヤモンドの輸出が外貨獲得の一つの手段でした。
日本からも宝飾業界のダイヤモンド輸入会社や総合商社などから
研磨済みダイヤモンドの買付に行っていました。
僕も、会社の指示で、1989年から94年まで10数回買付に行きました。
ソ連は、現サハ共和国(シベリアの北東地帯)で良質のダイヤモンド原石が取れ、それをスモレンスク(モスクワから西に400キロ)などの大きな研磨工場で研磨して、モスクワのアルマズ公団で世界各国の宝飾業者に販売していました。
ソ連内でダイヤモンドを扱っていたのが、非鉄貴金属の部門で、
そこの日本支部の担当者から僕の所属する会社に案内があったようです。
当時の僕の上司が、お前行きなはれと言ってくれたことあり、
また、僕は入社7年目で取引先も多く持ていたので、顧客のニーズも
つかんでいたことからの人選だったと思います。
初めてのモスクワは驚きの連続
さて、最初の訪問が、1989年11月ということになり、出張の準備を始めましたが、ソ連のことを多少知っている取引先の人から、
アルマズ公団(ダイヤモンドを扱っている部門の略称)へのプレゼントは、
煙草、それもマルボロがいい、ストッキングも喜ばれるというので、
マルボロなんか4カートンも買って、スーツケースに詰め込みました。
僕は、11月の出発日、成田からモスクワ行きのアエロフロート社の
イリューシンという機種に乗り込みました。
イリューシンという機種は、今も飛んでいるかどうか分かりませんが、
ソ連製でフランスの協力のもと製作した航空機で、収容人数は少ないですが、ほっそりとして航空力学を重視して作った機種と聴いていました。
成田から、モスクワのシュレメチボ国際空港へは、飛行時間約10時間。
当時は、まだスチュワーデスと言っていた時代で、独身の僕は、多少憧れがあったのですが、アエロフロート機のクルーは、僕のそんな淡い夢をぶち壊してくれました。
まず、男性がいること。女性のクルーもいるのですが、共に、半袖のシャツからぶっとい腕を出して、テキパキと動く姿は、
スチュワーデスへの淡い憧れは無残に砕かれ、その代わり、頼もしさを感じさせてくれました。
モスクワ国際空港はシュレメチボ
モスクワ空港に着いて驚いたのは、その暗さ。
えっ、これが国際空港、と思ってしまいました。
そして入国審査。
審査官が、僕のパスポートをじっと見ながら、
何かを言いました。
よく聞き取れなかったの聞き返したら、ボールペン持ってるか?でした。
僕は、即座にNOと言いました。
審査官はOKと言って、無事に入国。
ところで審査官は、ボールペンをくれということだったのか。。。
さてモスクワの11月は寒い。
多分零度くらい。
寒いという情報は取っていたのでコートは持っていましたが、
それでも凍えるくらい寒く感じました。
シュレメチボ空港からモスクワ市街地まで約40km。
交通手段としてはタクシーですが、多分正規のタクシーではないと思うのだけど取り合えず、ミーシャというドライバーにホテルまで送ってもらうことにしました。
彼は、片言の英語を話すことが出来て、ホテルまでいくらで行くと交渉するとお金はいらない、その代わり、ビデオテープを買ってくれというのだ。
ビデオテープは、ベリョースカという外国人向けのお店売っているらしい。
モスクワ市街までは40kmといってもただっ広い直線道を走るので30分ほどで着いてしまいました。
ミーシャとは、明日は公団まで送ってくれということで
明日の再開を約束して別れました。
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