終活という名のイベント 末期ビジネスのやりすぎについて

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こんばんは、ともやんです。

 

福井の雪は凄いですね。
立往生も48時間となり、関係してい方達の健康も心配です。

 

早く解決してほしいですが、山間部の道で立ち往生したのではなく、
国道8号線という主幹道路で立往生というところに今回の厳しさを感じます。

 

僕は富山出身ですが、福井は大雪というイメージはなかったですがね。

 

本日のTVでも言っていましたが、通常の冬なら積もっても20~30センチとレポーターが言っていましたし、雪の多いイメージは、まず新潟、そして富山という印象を持っていました。

 

ところで立往生の列が10キロも続いたといいますが、最初に立ち往生したクルマになにか問題はなかったのでしょうか?

 

例えば装備が不十分だったりとか。
その辺はわかりませんが、自然は舐めたらだめですね。



定年バカに見るバカバカしさ

勢古浩爾著「定年バカ」を読んでいます。

正確にいうと一度読み通したのですが、再読しています。

 

面白いからでもありますし、勢古氏の意見に突っ込みたくなる部分もあるからです。

 

勢古氏は、定年後何かをしてもいいし、何もしなくてもいい、
つまり好きなようにしればよい、と言っています。

 

ただ、この好きなようにとは、生活費もないのに飲んだくれて、
身を持ち崩すということではなく、最低限の生活はできるように働くことは必要としています。

 

僕は、定年前に呼んで勢古氏の「定年のリアル」を読んでから、氏の考え方に賛同しますが、ただ、なんでもかんでもバカ、バカ、と書いていることにも反発を憶えます。

 

さて、今日は勢古氏が終活イベントのバカバカしさについて書いていることに突っ込んでみたいと思います。


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勢古氏の文章を引用してみよう。

 

59歳で退職したときは、あと十年、七十まで生きられるかな、とは思った。体調に自信がなかったからだが、意外と大丈夫なものである。四、五十代に比べれば、たしかに死をより近くに感じる。実際、近い。いつなにかあってもおかしくはないな、という意識はある。

しかしこんなことをいくらいっても意味はない。多少意識はする、とはいっても、まったく本気ではないし、それゆえなにもしていないからである。だから「終活」といわれてもなんの実感もない。ふだんは死など完全に忘れている。できれば、死の三日ほど前まで本気になれなければいいと思う。

 

 

僕は終活は自然に感じることだと思っています。

自分が死んだ後のことは、勢古氏と同じに適当にやってもらって結構なのですが、家族に引き継ぐ、お金の事、これはプラスもマイナスもあるのですが、お金のことだけは明確にしておいた方がいいと思います。

 

だから、「入棺体験」やら「死に装束ファッションショー」やら「マイ骨壺」やら、ほとんど筒井康隆的ドタバタのノリで。真剣にやる方がどうかしていると思います。

 

業者は仕事ですから、真剣でしょうが、それに乗せられるのは、どうかと思います。

まとめ

終活というと、僕は家族への引継ぎ事項だけでよいと思っています。
やれ自分の葬式はあーしろこーしろとか、そういうのは傲慢だと思います。

 

人間長生きすると余計なことを考えるのでしょうか?

 

僕が一番理想とするのは、死ぬときにはゼロにすることです。
貯金はなく、その代わり借金もない。

 

葬式費用程度だけ残しておくのが一番いいかなと思います。

それが僕が考える終活ですね。



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